千円札、5千円札、1万円札の新札(新紙幣)が2024年に発行されますね。
5千円札には津田梅子という人物が描かれる予定となっていますが、津田梅子は何した人なのでしょうか。
また、岩倉使節団(いわくらしせつだん)というメンバーに選ばれなぜ留学したのでしょうか。
お札に描かれる程の人物なのですから気になりますよね。
こちらの記事では、津田梅子が何した人なのか、岩倉使節団でなぜ留学したのかについて説明しています。
興味のある方は是非読んでみてくださいね。
津田梅子は何した人?
新五千円札、津田梅子の「写真反転」疑惑で物議 肖像権・著作権から考えるhttps://t.co/F3YSTbwVgC
— 弁護士ドットコムニュース (@bengo4topics) April 27, 2019
1864年12月31日生まれ。(没年 1929年8月16日)
先進的な考え方の持ち主と言われる、農学者の津田仙(つだ せん)の娘として、東京の御徒町で誕生。
父親の津田仙は、子どものころから英語やオランダ語を学び、通訳として幕府に仕えていました。
津田梅子は、6才のときに「岩倉使節団」の一員として親元を離れ渡米しました。
幼い時期に親元を離れるなんて、親子共とても勇気のいる事だったのではないでしょうか。
以後11年間、アメリカのワシントン近郊、ジョージタウンの「ランマン夫妻」の家庭で育てられました。
留学から2年後の1873年、キリスト教の洗礼を受けたいとランマン夫妻に頼んだそうです。
それほどアメリカの暮らしに馴染んでいたのですね。
留学期間は1881年までの予定でしたが、津田梅子本人の希望で1年間延長されまして、17歳になって日本に帰国しました。
アメリカでの暮らし方や、西洋の知識、教養を身に着け、その後4回アメリカやイギリスに渡りました。
そうした中で、女性が自立する為には、専門的な知識を身に着ける教育が必要だと考えるようになり、1900年(当時35歳)の時に東京で女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校しました。
それまであった女子の学校は、お行儀作法の延長のようなものでした。
しかし、津田梅子が開校したのは、少人数方式のレベルが高い教育を目指した学校でした。
初年度の入学者は日本全国から集まった10名程の女性だったそうです。
女性たちは英語を学び、英語教師を目指しました。
この時、日本人女性の活躍できる世の中がやっと始まったのですね。
津田梅子は岩倉使節団でなぜ留学したの?
梅子を岩倉使節団に入る事になったきっかけは、父親であり農学者の津田仙(つだ せん)の影響でした。
津田仙は、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米した経験がありました。
その時、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしたのです。
当時の日本は男尊女卑(男性を尊重し女性を軽視すること)があたりまえとされていたので大きな衝撃を受けた事でしょう。
父親の経験が、娘の梅子を渡米させるきっかけとなったのですね。
岩倉使節団の目的は、政府首脳による不平等条約の改正交渉、官僚や留学生よる欧米諸国の制度や技術の調査でした。
伊藤博文(いとうひろぶみ)や木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)といった政府の首脳も同行しました。
津田梅子は『開拓使派遣留学生』の一員として、アメリカ滞在は10年の予定でした。
他の男子学生が2年で帰国しているなか、女子学生だけ10年も滞在したのです。
その背景には、北海道の開拓を行っていた黒田清隆(くろだきよたか:後の内閣総理大臣)による力添えがあったからだと言われています。
黒田清隆も1867年に梅子の父、津田仙とともに渡米した経験があり、アメリカの女性の教育レベルや地位の高さに驚いたのだそうです。
帰国した黒田が女子教育の重要性を政府に掲げ、女子留学生の派遣が政府によって許可されたのだそうです。
まとめ
こちらの記事では、2024年に新5千円札に描かれる、津田梅子について、何をした人なのか、またなぜ岩倉使節団で留学したのか説明しました。
津田梅子は日本で最初の女子留学生として渡米し、女性の自立や女子高等教育の礎を築いた人物です。
その背景には、幼い頃から親元を離れ、アメリカの家庭で暮らすという幼い子には耐えがたい経験がありました。
しかし津田梅子は2年で現地の暮らしに馴染めた事もあり、幼い頃からも前向きな行動力と姿勢を感じる事ができますね。
現在の津田塾大学を開校し、日本人女性の活躍できる世の中の第一歩を踏み出してくださった方なのです。
岩倉使節団に入る事になったきっかけは、父親であり農学者の津田仙(つだ せん)の影響でした。
津田仙は渡米の経験から、日本の女性の教育レベルや地位の低さを痛感したのですね。
それにしても、可愛い我が子を遠い異国の地へ送るのはとてもつらい事だったと思います。
現在、日本女性が活躍できるのは、津田梅子と父である津田仙の勇気ある決心のおかげなのだと感じます。