2024年の上半期(4~9月)頃に、千円札、5千円札、1万円札の新札(新紙幣)が発行されますね。
新らしい千円札に描かれる人物は北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)という方ですが、北里柴三郎は何した人なのでしょうか。また、ノーベル賞を受賞できなかったとの話がありますがなぜ受賞できなかったのでしょうか。
こちらの記事では、北里柴三郎が何した人なのか、またノーベル賞をなぜ受賞できなかったのか説明しています。
興味のある方は是非読んでみてくださいね。
北里柴三郎は何した人?
#虎8 新千円札、北里柴三郎。https://t.co/X9tNFDrI4w pic.twitter.com/Kz7cXlEQ2r
— SMB (@smbshimbashi) March 24, 2020
1853年1月29日生まれ。(没年 1931年6月13日)
熊本県で、代々庄屋を務める家に生まれました。
18歳の時、成績優秀だった北里柴三郎は医学への道を志し、熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学、オランダ人医師のマンスフェルトの元で医学を学びました。
21歳の時、東京医学校(現在の東京大学医学部)へ入学し、予防医学の道へ進む事を決意しました。
30歳の時、内務省衛生局に入局。
1886年(当時33歳)からの6年間ドイツにて、細菌学の世界的権威コッホに学びを受け、病原微生物学の研究に励み、1889年に破傷風菌の純粋培養に成功。
さらに破傷風菌の免疫抗体を発見し、それを応用して血清療法を確立しました。
1890年(当時37歳)、破傷風の血清療法を応用し、ドイツ人医師のベーリングと共にジフテリアの血清療法の論文を連名で発表。
(第1回ノーベル生理学・医学賞の候補者なったが、受賞したのはベーリングだけでした。)
1892年(当時39歳)の時日本に戻り、福沢諭吉らと私立伝染病研究所を設立。
伝染病予防と細菌学の研究に取り組み、1893年には日本最初の結核専門病院を開設。
1894年には香港へ行き、ペスト菌を発見しました。
1914年(当時61歳)に「北里研究所」を創立。
黄熱病の研究で知られる細菌学者の野口英世(現千円札の肖像)など、多くの優秀な門下生を育てました。
1917年、慶應義塾大学医学科を創設し、日本医師会や病院設立などの社会活動に従事しました。
北里柴三郎はノーベル賞をなぜ受賞できなかったの?
1890年に、ジフテリアの血清療法の論文を、ドイツ人医師のベーリングと共に発表した北里柴三郎。
第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里柴三郎の名前が挙がりましたが、共同研究者のベーリングのみが受賞する結果となりました。
なぜベーリングだけが受賞する事になったのでしょうか。
理由は3つあるようです。
①ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと
②柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアは、ベーリング単独で創出したとみなされたこと
③当時ノーベル賞の共同授賞の考え方がまだなかったこと
このような理由から、惜しくも受賞を逃してしまったようです。
理由のひとつとして、当時アジア人への偏見があったとの噂もありますが、人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていません。
しかし、ベーリングはノーベル賞の受賞後、「全ては北里のおかげ」と言葉を残しており、北里柴三郎の功績は称えられるようになったそうです。
ノーベル賞という称号は逃してしまったものの、功績はいまもなお受け継がれてついにはお札に肖像画が描かれる事となりましたね。
まとめ
2024年に、新千円札に描かれる、北里柴三郎について何をした人なのか、またなぜノーベル賞を受賞できなかったのかについて説明しました。
北里柴三郎は、現在の千円札に描かれている野口英世を育てた人物で、医学の発展に貢献し、力を注いだ人物です。
破傷風菌の免疫抗体を発見し、血清療法を確立したり、ペスト菌を発見したりと、医学界に多大な功績を挙げた方です。
ジフテリアの血清療法の論文を、ドイツ人医師のベーリングと共に発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里柴三郎の名前が挙がりましたが惜しくも受賞できませんでした。
しかし、功績はいまもなお受け継がれ、ついにはお札に肖像画が描かれる事となりました。
北里柴三郎は、医学での多大な功績を挙げた偉大な人物ですね。日本人として誇りに思います。